
とある人たちが、「プライド」について、意見をぶつけあっていました。
Aさんは、「プライド」についてこう語っていました。
「プライドなんて捨てたほうがいい。
プライドを持つからつまらない争いが生まれるし、その人の変化や成長を妨げることにもなる。誇り(ほこり)は埃(ほこり)でしかない。」
一方で、Bさんはこう反論しました。
「チームの一員としてのプライドを持つことは大事。
たとえば、「日本代表」としてのプライド。『日本を代表して戦う』というプライドがあるからこそ、チームがまとまり、力を発揮できる」
読者のみなさまは、この2人の意見についてどう思われましたでしょうか?
どちらの意見も分かる気がします。
実は、「プライド」という言葉の響きは同じですが、似て非なる意味合いになります。
Aさんの言っているプライドを「妙なプライド」、
Bさんの言っているプライドを「真のプライド」と呼ぶとしましょう。
つまり、「妙なプライドは捨てた方がいい。真のプライドは大切にした方いい。」ということになります。
「プライド」は、身近に存在するものであり、自身の生き方に良くも悪くも大きく影響を与えるものです。
だからこそ、「プライド」について正しい理解を持っておくことは大切です。
たとえば、「〇〇大会優勝」「最優秀賞」などの「実績」を得たとしましょう。これ自体は素晴らしいことですが、こういった「過去の成功体験」に固執すると、「自分は人より優れている」といった「妙なプライド」が入り込んできます。
学歴、職歴、肩書、地位、名誉、出所、財産、年収、資格…こういったものも持っていることに越したことはありませんが、そこに固執すれば、「妙なプライド」が入り込んできます。
「妙なプライド」、それは「肥大化した自尊感情」と言い換えられます。
「妙なプライド」は、自己像を歪ませます。
他者から見ると、「なんだか偉そう」「上から目線」「何か勘違いしている」ように映ります。
世の中、色んな人がいて当然なので、「それがいけない」と咎(とが)めるつもりはありません。
問題は、「妙なプライド」を持つことは、「自分自身を苦しめる」ことに直結するという点です。
これはいったいどういうことでしょうか。
「妙なプライド」の根底にあるのは、「自分の優位に物事を進めたい」「自分を優位な立場に身を置きたい」といった「自己保身」の感覚です。
ですが、自分の足を引っ張る存在、思い通りにならない出来事や、自分のプライドを傷つけるような発言に遭遇したらどうでしょう。
他者への攻撃的な態度(他責)や、他者への不信感につながっていきます。
つまり、「ネガティブ感情」にさいなまれることになります。
これらの出来事は、他者がもたらしたものではなく、自身の「妙なプライド」が引き起こしたものです。
「妙なプライド」を捨てることは、自分自身を苦しみから解放することにもつながります。
ミスターチルドレンの名曲「名もなき詩」の歌詞にもこうあります。
「妙なプライドは捨ててしまえばいい。そこからはじまるさ。」
ですが、人間には生存本能(自己保身本能)がある以上、知らぬ間に「妙なプライド」が入り込んでしまうものです。
(筆者も例外ではありません)
だからこそ、より良く生きるには、「妙なプライドが入り込んでいないか?」を自身に問いかけることが大切に思います。
一方で、「真のプライド」とはいったいどういうものでしょう?
自分にウソをつかず正直に生きる。
自分に非があれば素直に認める。
ダメな部分も含めて、自分を受け容れる。
自分自身を「等身大」で捉えている。
良識に従った生き方をする。己を律する。
「魂」を売らない。
自己保身に走らず、時には他者のために身を呈する。
「人としてのプライド(矜持)」を大切にする。
「真のプライド」、それは「ありのまま」と向き合い、強くしなやかに生きる力とも置き換えられます。
このようなプライドには「ブレない自分軸」があるように思います。
自分自身を高くも低くも見せない、ニュートラル(普通)の感覚です。
「良く思われたい」「こう思われたらどうしよう」と変に気を遣うこともないので、いたってニュートラル(普通)に振る舞うことができます。
「真のプライド」を持っていると、何かに囚われる感覚がないので、心に余裕が生まれます。
それが、「他者に対する肯定感や愛情」にもつながってきます。
仮に他者が裏切ったとしても、「人は変化するもの」「今はそうなだけ」と捉えて、現実をありのままに受け容れることもできます。
もちろん、完璧にそうなることは難しいとしても、誰しもこのような「真のプライド」を持つことは可能だと思います。
そのためにも、今日一日の心のあり方、振る舞いを大切にしていきたいと感じる今日この頃です。