
※これは特定の政党や政策を支持するものではなく、あくまで筆者個人が「どう心が動いたか」を綴ったものです。
筆者は、いわゆる”就職氷河期世代”です。
正直に言えば、これまで政治に大きな期待を持ったことはありませんでした。
「どうせ、何を言っても変わらない」
「投票したところで、自分の暮らしが良くなるわけじゃない」
「政治は、自分とは無関係な、遠い世界の話」
「だったら、政治よりも、今の自分にできることに集中した方がいい」
そんな思いが心のどこかにありました。
社会に無関心だったというより、むしろ、少し諦めていたのだと思います。
その諦めが、「政治に期待しても、どうせ何も変わらない」という姿勢につながっていたのかもしれません。
そんな筆者が、今回の参院選で、久しぶりに投票所へ足を運びました。
特定のスローガンに心を動かされたわけではありません。
きっかけは、ここ数年で感じた社会の空気の変化でした。
そして、ネットを通じて広がってきた「見えなかったものが見えるようになってきた感覚」。
それが、自分の中で何かを動かしました。
たとえば、マスメディア報道の裏にある“しがらみ”。
利権、既得権、組織票——。
以前はどこか他人事のように聞いていましたが、少しずつその構造がリアルに見えてくるようになったのです。
AIの登場も大きかったと思います。
情報と情報がつながり、背景や流れまで“解像度高く”見えてくる。
点と点が線になり、「ああ、そういうことだったのか」と、腑に落ちる瞬間が増えていきました。
「30年前には分からなかったことが、今は分かるようになった。」
これは紛れもない事実だと思います。
まるで、長いあいだ曇っていた窓ガラスが、ある日ふと拭き取られ、
その向こうの景色がくっきりと見えてきたような——
そんな感覚を覚えたのです。
だからこそ、「おかしい」と思ったことを対しては異を唱えられるようになりました。
一人の主張を一方向からしか捉えるのではなく、多角的に捉えられるようにもなりました。
その上で、自分の意志で投票できるようになりました。
もちろん、今回の選挙結果によって、すぐに何かが劇的に変わるとは思っていません。
でも、「どうせやっても無駄」と思っていた自分の中に、
「それでも、関わることには意味があるかもしれない」という感情が、確かに芽生えました。
…いや、もしかすると「無関心」でいることのほうが、楽だったのかもしれません。
関われば、考える責任が生まれます。
期待すれば、失望するリスクも背負います。
だからこそ、どこかで「知らないフリ」をしていたのは、他でもない自分自身だったのかもしれません。
これは、政治に限った話ではありません。
筆者が関わっている企業活動でも、同じことが言えます。
「会社が変わらない」のではなく、私たちもまた「変わらない側の一人だった」のだと気づけたこと。
それが、今回の選挙を通じて得られた、一番の収穫だったのかもしれません。
地域に参加すること。
会社の未来に参加すること。
小さなコミュニティの空気を、少しでも温めること。
そんな“参加”が、分断が進んだこの社会に、再び“つながり”をもたらすのかもしれません。
誰かがすべてを変えてくれるわけではない。
でも、自分の手で投じた一票に、たしかな意味を感じられた。
ほんの少し、興味を持ってみる。
「どうせ何も変わらない」という言葉を、ほんの少し疑ってみる。
——その一歩が、これからの“参加する社会”につながっていく。
そんな気がしています。