
パリオリンピックが幕を閉じました。
読者のみなさまにとって、最も記憶に残る場面・選手・チームはどれでしょうか?
今回筆者が取り上げたいのは、陸上・田中希実選手です。
女子1000m、1500m、3000m、5000mで日本記録を持ち、日本では無双の強さを誇る田中選手ですが、今回のオリンピックでは1500m・5000mとも決勝進出には至りませんでした。
田中選手は、最後のレース(1500m)直後のコメントで次のように述べています。
「決勝に行けなかったことは残念です。いつか、もう一度(決勝に)立って見せる、という新たな気持ちを作れるレースになったと思います。自分の中では大きな一歩だったと思います。」
「(パリ五輪は)苦しい時間が思ったよりも長い大会になってしまいましたが、私にとって必要な試練であって、理不尽な苦しみではなく、私に与えられるべくして与えられた本当に幸せな時間でした。そういう時間を味わえたことがとてもうれしいです。」
筆者はこのコメントを見て、田中希実選手の「精神性の高さ」を感じました。
努力が報われなかったという点で意気消沈してもおかしくない場面で、気持ちを切り替えるどころか、「私に与えられるべくして与えられた本当に幸せな時間でした。」と、この経験の意味合いを自分なりに見出し、自己成長の機会として捉えているところにすごみを感じました。
ここで申し上げたいことは、客観的に見たら、失敗や不遇に思うことであっても「本人がその経験をどう解釈するかどうかは自由である」ということ、そして、その解釈次第によってはどんな経験も自己成長の機会につなげられるということです。
人生、誰しもが一度や二度ならずとも不遇な経験をしているはずです。
その経験をどう解釈するかによって、過去が浄化されることもあれば、忌まわしいものになることもあります。
これは、第二次世界対戦でナチスによるユダヤ人強制収容所に収監された、「夜と霧」の著者・精神科医ヴィクトール・E・フランクルの考えとも共通します。
強制収容所におけるユダヤ人は、家族を引きはがされ、衣食住すべての自由が奪われ、監視官から家畜のごとく扱われ、過酷な労働を強いられ、いつガス室に送られるかわからないような想像を絶する状況に身を置かれていました。
同氏は、実際にそのような状況で、生きる意味を見出せず考えることを止めてしまった人、虚無的になってしまった人、あるいは自ら生き延びるために仲間を裏切ったりするような人を目の当たりにしたそうです。
そんな中でも、同氏は自分を見失わず、次のような気づきを得ました。
「他者からことごとく『自由』が奪われようとも、
その人が何をどう思うかという『自由』までは奪われなかった。」
同氏は、極限の状況下で、このように自分に問いかけていたそうです。
「自分はどうあるか?」
こうして、自分の「あり方」を最後まで見失うことなく精神性の崩壊を免れました。
また、収容所での経験から、同氏は次のようなことも述べています。
「我々が人生の(生きる)意味を問うのではない。
重要なことは、我々は人生に何を問われているか?を考えることだ。」
分かりやすくいうと、
「何のために自分は生きるのか?」という問いを持つのではなく、
「人生で起こる様々な経験は、今の自分にとってどんな意味合いがあるのか?」
という問いを持ち続けて生きることが大切だということです。
こうなると、すべての経験を肯定的に受け容れることができ、生涯にわたって自己成長の曲線を描いていくことになります。
田中希実選手が、4年後のロサンゼルスオリンピックで、心身ともにさらに成長した姿になって帰ってくることが今から楽しみです。