人と組織の”葛藤”物語

知らない、という自由

SNSを始めた頃は、楽しかったです。
知らなかった世界の話を知ることができて、会ったことのない人の考えに触れることができて、実際にSNSを通じて出会えた人もいます。
情報の海に飛び込むことが、純粋に面白かったです。

けれどいつの頃からか、少しずつ変わっていきました。
自分の投稿へのいいねの数が気になるようになりました。
誰がいいねしてくれたか、なぜあの人はしてくれないのか。
そんなことを、気づけば考えていました。
過激な言葉を使った投稿を目にすることも増えてきました。
流し見しているだけのつもりなのに、気づかないうちに気持ちがざわついている。
広いようで実は限られている情報の海の中で自分を見失い、ただ流されてしまうようになっていました。
やめよう、と何度思ったでしょう。
それでも、SNSには面白い側面もたくさんあるからこそ、やめられませんでした。
惰性で画面をスクロールしながら、そんな自分に少しずつ嫌気が差していました。
ある日、「もうやめよう」と決意を固めて、アカウントを消しました。

しばらくして、気づいたことがあります。
好きな音楽を聴いても、好きな本を読んでも、以前とは何かが違います。
SNSを使っていた頃は、作品に触れる前からみんなの感想が目に入っていました。
評価、考察、賛否。
自分の感覚が生まれる前に、誰かの言葉が先に来ていました。
情報を手放してから、作品に触れてまずは自分がどう感じたかに目がいくようになりました。
自分の中で手探りして、作品を味わう感覚。
その感覚が、なんだかとても懐かしかったです。

家族と話す時間も、変わりました。
以前は誰かに話したくなるような楽しいことがあるとすぐにSNSに書いていました。
気持ちを不特定多数に向けて言葉にして投稿することで、楽しい思い出はもう箱にしまったように、どこか満足してしまっていたのかもしれません。
あとで家族に話すころには「済んだこと」になっていたり、そもそも話さなかったりしていました。
今は、まず家族に話をします。
言葉にするのが少し下手でも、うまく伝わらなくても、大切な家族と話して笑い合える時間を日々丁寧に過ごせることが、私にとって価値のあるものだと気が付きました。

友人と会う時間も、変わりました。
以前は、SNSで近況をある程度把握したうえで会っていました。
知っているから話が早い、という便利さはありました。
それはそれで、悪くなかったと思います。
でも今は、何も知らないまま会います。
「最近どうしてた?」
その一言が、以前とは違う重さを持つようになりました。
まっさらな気持ちで、今この瞬間を共にしてくれている大切な友人の、私だけに向けた言葉やしぐさに、より興味をもてるようになりました。
知らないからこそ、会うことが楽しみになります。

情報がなければ不便なこともあります。
話題についていけないこともあります。
それでも今は、知らないことを不安に思うより、知らないままでいることを、自分で選んでいる感覚があります。
知らないからこそ、自発的に生まれる能動的な知りたいという気持ちにも純粋に向き合える気がします。

ありとあらゆる情報にあふれた現代の中で、あえて情報を得ない選択をすることは、欠如ではないのかもしれません。
それはむしろ、自分という軸のあるランタンを持ったうえで、知らないことだらけのこの世界を面白がりながら歩いていくための余白なのだと思います。