人と組織の”葛藤”物語

フィクションという鏡

フィクションは、鏡のようなものだと思っています。

小説、映画、ドラマ、ゲーム。そうした作り話の中には、現実の世界や、自分自身の姿が映っています。

私がそう思うようになったのは、学生時代に英文学を勉強していたときでした。

現実の世界では、語りにくいことがあります。タブーとされていること、立場や状況によって口に出せないこと、さまざまな制約があって正面から向き合うのが難しいこと。

でも、それをフィクションにしてみると、不思議と向き合えるようになります。

「これは作り話だから」というクッションが一枚はさまることで、現実ではつらくて見られないことや、なかなか認知されにくいこと、語りにくいことも、少し離れたところから落ち着いて見られるようになるのです。

英文学の授業で、こんな事例を学びました。

キリスト教は、唯一絶対の神だけを信じる宗教です。そして、ある時代には、その神の名をみだりに唱えてはならない、という考え方が、とても重んじられていました。そのため、作品の中でキリスト教の神について語ることは、はばかられることでした。

そこで、ある作家は、神様を複数登場させるという工夫をしました。神様が何人もいる世界を描けば、唯一の神であるキリスト教の神について書いているのではなく、あくまで物語の中の神々の話、ということになります。

けれど、作品の内容をよく読むと、そこで扱われているのは、明らかにキリスト教の神についての問いでした。

直接は語れないことを、フィクションというクッションをはさむことで語る。禁じられたことの中にこそ、いちばん語りたいことがあったのかもしれません。この事例を知ったとき、作家の工夫に感心すると同時に、フィクションの力の大きさにはっとしました。

フィクションは、現実から目をそらすためのものだと思われがちです。確かにそういう側面もあるでしょうし、私自身、そういった面にたくさん助けられてきました。一方で、現実や自分自身と向かい合うために、必要なものでもあると思います。

本を読むとき、映画を観るとき、ゲームの中で誰かの人生を歩むとき、私たちは登場人物を通して、自分の中にあるものや、自分が生きている現実を見ています。誰かの痛みを知り、自分の弱さに気づき、自分の暮らす社会のありようが見えてきて、まだ言葉になっていなかった気持ちに名前がつく。

鏡があって、私たちは初めて、自分の姿も、自分が生きる世界の姿も見られるのです。

英文学を学ぶ中で、フィクションとの付き合い方が少し変わった気がします。

今でも、ふと物語の世界に触れたくなります。ままならない現実の世界や、私自身と向き合うための鏡をのぞき、よりよく生きていくためのヒントを探しているのかもしれません。