栄木の”ひとり言”

【第291号】感情のやりとりvs情報のやりとり

先日、ある上場企業の社長にお会いしました。

60歳を目前にしてもなお、とても生き生きとしていて、前向きなエネルギーに満ちていました。
話しているだけで、こちらまで力をもらえる。正直、少し圧倒されました。

そして帰り道、筆者は自分自身を振り返りました。

以前の筆者は、もっと前のめりでした。
会いたい人がいればどんどん会いに行き、気になることがあれば、相手の反応を恐れず電話をかけていました。

ところが最近は、電話一本をかけることさえ、ためらっている自分がいます。

「忙しいかもしれない」
「電話よりメールのほうが迷惑にならないだろう」

もちろん、相手への配慮でもあります。しかし、本当にそれだけなのでしょうか。

いつの間にか筆者は、人との関わり方まで慎重になりすぎていたのかもしれません。

メールは、とても便利です。

日時や金額、依頼内容など、互いの条件や認識が一致しているときには、効率よく情報をやりとりできます。

ただ、少しでもズレが生じると、途端に難しくなります。

こちらは相談のつもりでも、相手は決定事項だと受け取る。
簡潔に書いた文章が、冷たく感じられる。
送ったメールに返信が来ないと、何か気に障ることを書いたのではないかと、やきもきする。

情報が足りない部分を、人は想像で補います。
そして、その想像には、不安や感情が入り込みます。

情報のズレが、いつの間にか感情のモヤモヤに変わってしまうのです。

電話や対面であれば、声の調子や表情から、小さな違和感に気づけます。

「少し違って伝わっているかもしれません」
「そういう意味だったのですね」

そんな一往復で、ズレが解けることも少なくありません。

「情報のやりとり」は、条件や認識が一致しているときには強い。
一方で、声や表情を伴う「感情のやりとり」には、小さなズレに気づき、関係を調整する力があります。

こう考えると、便利さの中で私たちが失いつつあるのは、声や表情だけではないのかもしれません。

相手を思いながら、少し手間をかける時間そのものも減っています。

例えば、一枚の葉書を書くとき。

相手の顔を思い浮かべ、何を書こうか考え、宛名を書き、ポストまで持っていく。確かに手間はかかります。

しかし、その手間の中には、「その人を思っていた時間」が含まれていました。

葉書のやりとりには、情報だけではなく、相手を思う気持ちのやりとりがありました。

「ひと手間かける」ことは、非効率とは似て非なるものです。

相手を思った時間の「見える化」でもあります。

もちろん、電話が正しくて、メールが悪いわけではありません。

大切なのは、どちらが優れているかではなく、今、自分が届けたいものは「情報なのか」「気持ちなのか」を考え、手段を使い分けることだと思います。

情報を正確に伝えたいなら、メールでよい。
相手の様子を知りたいなら、電話をする。
大切な話なら、なるべく会いに行く。

筆者自身、いつの間にか便利さに慣れ、人に向ける温度まで少し下げていたのかもしれません。

だからこそ、まずは自分から変えていきたいと思います。

会える人には会いに行く。
気になったら電話をかける。
感謝は、その場で言葉にする。

便利になった社会だからこそ、人を思う手間まで省略しない。

情報だけではなく、気持ちも届ける。

そんな「感情のやりとり」を、筆者自身から取り戻していきたいと思います。