先日、ある上場企業の社長にお会いしました。
60歳を目前にしてもなお、とても生き生きとしていて、前向きなエネルギーに満ちていました。
話しているだけで、こちらまで力をもらえる。正直、少し圧倒されました。
そして帰り道、筆者は自分自身を振り返りました。
以前の筆者は、もっと前のめりでした。
会いたい人がいればどんどん会いに行き、気になることがあれば、相手の反応を恐れず電話をかけていました。
ところが最近は、電話一本をかけることさえ、ためらっている自分がいます。
「忙しいかもしれない」
「電話よりメールのほうが迷惑にならないだろう」
もちろん、相手への配慮でもあります。しかし、本当にそれだけなのでしょうか。
いつの間にか筆者は、人との関わり方まで慎重になりすぎていたのかもしれません。
メールは、とても便利です。
日時や金額、依頼内容など、互いの条件や認識が一致しているときには、効率よく情報をやりとりできます。
ただ、少しでもズレが生じると、途端に難しくなります。
こちらは相談のつもりでも、相手は決定事項だと受け取る。
簡潔に書いた文章が、冷たく感じられる。
送ったメールに返信が来ないと、何か気に障ることを書いたのではないかと、やきもきする。
情報が足りない部分を、人は想像で補います。
そして、その想像には、不安や感情が入り込みます。
情報のズレが、いつの間にか感情のモヤモヤに変わってしまうのです。
電話や対面であれば、声の調子や表情から、小さな違和感に気づけます。
「少し違って伝わっているかもしれません」
「そういう意味だったのですね」
そんな一往復で、ズレが解けることも少なくありません。
「情報のやりとり」は、条件や認識が一致しているときには強い。
一方で、声や表情を伴う「感情のやりとり」には、小さなズレに気づき、関係を調整する力があります。
こう考えると、便利さの中で私たちが失いつつあるのは、声や表情だけではないのかもしれません。
相手を思いながら、少し手間をかける時間そのものも減っています。
例えば、一枚の葉書を書くとき。
相手の顔を思い浮かべ、何を書こうか考え、宛名を書き、ポストまで持っていく。確かに手間はかかります。
しかし、その手間の中には、「その人を思っていた時間」が含まれていました。
葉書のやりとりには、情報だけではなく、相手を思う気持ちのやりとりがありました。
「ひと手間かける」ことは、非効率とは似て非なるものです。
相手を思った時間の「見える化」でもあります。
もちろん、電話が正しくて、メールが悪いわけではありません。
大切なのは、どちらが優れているかではなく、今、自分が届けたいものは「情報なのか」「気持ちなのか」を考え、手段を使い分けることだと思います。
情報を正確に伝えたいなら、メールでよい。
相手の様子を知りたいなら、電話をする。
大切な話なら、なるべく会いに行く。
筆者自身、いつの間にか便利さに慣れ、人に向ける温度まで少し下げていたのかもしれません。
だからこそ、まずは自分から変えていきたいと思います。
会える人には会いに行く。
気になったら電話をかける。
感謝は、その場で言葉にする。
便利になった社会だからこそ、人を思う手間まで省略しない。
情報だけではなく、気持ちも届ける。
そんな「感情のやりとり」を、筆者自身から取り戻していきたいと思います。