先日、管理職向けの研修で、メンバーへの対応にかなり手を焼いている方がいました。
「とにかくレベルが低いんです」
「小学生レベルですよ」
具体的に話を聞いてみると、確かに頭を抱えたくなるような話が次々と出てきます。
何度伝えても同じミスをする。
自分で考えない。質問もしてこない。
正直、その管理職の方の苦労が気の毒に思えました。
ただ、話を聞きながら、もう一つ気になったことがありました。
メンバーの話をするときの、その方のまなざしです。
声色。表情。ちょっとした間。
言葉そのものではなく、そこから「蔑(さげす)み」のようなものを感じたのです。
もしかすると、メンバーも日々それを感じ取っているのかもしれません。
これは、「もっと優しい言い方をしましょう」という話ではありません。
少しくらいきついことを言われても、そこに愛情や親しみを感じることはあります。
いじられて笑い合えるのも、根っこに「あなたのことをちゃんと見ていますよ」という関係があるからでしょう。
反対に、どれだけ丁寧な言葉を使っていても、
「あなたは大した人ではない」
「まともに相手をするほどではないのに、なんで自分がこんなに足を引っ張られるんだ」
そんな気持ちは、案外伝わってしまいます。
筆者にも似たような経験があります。
以前、月に一度、土曜日に参加していた勉強会がありました。
いつからか、その土曜日が憂鬱になりました。
何かひどいことを言われたわけではありません。
ただ、どこか「のけ者」にされている感じがする。
こちらが話しても、あまり興味を持ってもらえていない感じがする。
相手にそんなつもりはなかったのかもしれません。
でも、受け手というのは、意外とこういうところに敏感です。
そして、やっかいなのは、「相手を下に見る感覚」が、一部の嫌な人だけのものではないことです。
学歴。年収。役職。会社名。肩書き。これまでの実績。
自分が努力して手に入れたものほど、誇りになります。
それ自体は、悪いことではありません。
ただ筆者は、自分が強くこだわっているものほど、人を見るときの物差しにもなりやすいと思っています。
例えば、何年も努力して、念願の難関大学に合格したとします。
その人にとって大学名は、単なる経歴ではありません。
頑張ってきた自分の証でもあるでしょう。
だからこそ、学歴を大切にする。
ただ、それが強くなりすぎると、いつの間にか出身大学で相手を見てしまうこともある。
自分の誇りだったものが、人の上下を決める物差しに変わってしまうのです。
これは学歴に限りません。
「自分はこれだけ稼いできた。仕事で実績を残してきた。」
「自分は現場で叩き上げてきた。誰よりも努力をしてきた。」
「自分はこんないい場所に住んでいる。いい車に乗っている。」
そして、いつの間にか、
「自分は、あの人たちとは違う」
と線を引き始める。
筆者自身にも、そういうところはあると自覚しています。
だから、「人を見下すなんて、けしからん」と誰かを責めたいわけではありません。
むしろ、自分にもそうした感覚が出てくることを知っておきたいのです。
何かを誇りに思うことと、その物差しで相手を扱うことは、別の話です。
ある運送会社の先代社長は、
「従業員やドライバーの支えがあってこそ、この会社は成り立っている」
と考えていたそうです。
その心根は、きっと日々の接し方にも表れていたのでしょう。
ところが代が替わってから、どうもドライバーを下に見るような空気が出てきた、と聞きました。
組織のひずみは、意外にこんなところから生まれてくるものです。
「自分が使っている人」と見るのか。
「この人たちに支えてもらっている」と見るのか。
同じ仕事をお願いしていても、そのまなざしは違うのでしょう。
仕事の出来に差はあります。
求める水準を下げる必要もありません。
ただ、仕事の評価と、人として大切に扱うことは別です。
まなざし。
いたわり。
あたたかみ。
リスペクトというのは、きれいな言葉を使うことではなく、相手をどう見ているか、そのものなのかもしれません。
そしてそれは、思っている以上に相手に伝わっています。
「今、自分はこの人を、どんなまなざしで見ているだろう?」
人と力を合わせて仕事をするために、時々そんな問いを、自分自身に向けてみたいと思います。