更新日 2023.09.26
【第144号】一般道1,000kmの旅

先日、四国から茨城まで、車で移動しました。
それだけでも驚かれそうですが、
今回は「一般道だけ」を使った旅です。
(※「今治~尾道間」だけは一般道が通っていないので、有料道路を利用)
道中、約1,000kmを約3日間かけて移動しました。
ひたすら運転をする中で、ある「気づき」を得ました。
それは、
「運転とは人生の縮図」
というものです。
以下、紹介していきます。
1. 人生も運転も「理不尽」に満ちている
筆者には、運転で心がけていることがあります。
それは、
① 流れに合わせる(←迷惑をかけないため)
② 車間距離は適度に取る(←前方の車の「急ブレーキ」を想定)
③ 横断歩道で歩行者を見かけたら一時停止(←弱者をいたわる)
というものです。
筆者の運転での価値観は、「人生の価値観」とも重なります。
それゆえに、自分の価値基準に反した運転に遭遇すると、つい腹立たしく思ってしまいます。
一般道で1000kmも運転していると、様々な事象に遭遇するものです。
煽り運転、急な割り込み、猛スピード、ウィンカーを出さず車線変更する車、ジグザグ車線変更を繰り返す車…
それでも事故に遭わないから、このような運転を繰り返しているのでしょう。
どれも、人間の「自己中心さ」を感じます。
また、横断歩道で歩行者を見かけたので、一時停止をしたら後続車からクラクションを鳴らされることもありました。
良かれと思ってやったことが、かえって批判にさらされる…。
これも「人生あるある」です。
スピード違反の交通取締検問にも3回ほど遭遇しました。
人生も運転も「思わぬ罠」が潜んでいるものです。
このように、人生も運転も「理不尽」に満ちています。
その中でも、自分を見失わず、どう保っていくかが大事だと思いました。
2. 人間とは、そもそも「矛盾した生き物」である
安全運転を心がけている筆者ではありますが、1000kmすべての道中がそうだったのか?というと、答えは「否」です。
安全運転を続けると、どうしても「単調・退屈」になってしまいます。
「スリルや刺激を求める自分」も時に顔を出しました。
人間、「平和に平穏に暮らしたい」と思う一方で、
それでは飽き足らず「変化や刺激」を求める生き物です。
「刺激が欲しい」というのは、自己中心的な発想です。
だから、刺激を求めれば求めるほど「自己中心さ」が増し、周囲が見えなくなります。
それが上記の煽り運転や、猛スピードなどの危険な運転につながっていくのでしょう。
ただ、そういう「自己中心的な部分」は、程度の差こそあれ誰にも潜んでいるものです。
「誰かの助けになりたい」と思う一方で、「自分さえ良ければいい」と思うのも人間。
そんな「矛盾」を誰しも抱えています。
ただし、刺激や楽しみばかり求めると、周囲が見えなくなり、やがて自分すら見失います。
時に一歩引いた目で自分を振り返り、バランスを保っていきたいものです。
3. 人生も運転も、「効率」を求めないからこそ「彩り」が出てくる
高速道路は「時短」にはつながるものの、「道中の変化」はあまり楽しめません。
一方、今回の「一般道1,000kmの旅」は、思わぬ発見や感動が様々ありました。
海岸線、山々を見下ろすハイウェイ、巨大なダム、地域の人との出会い…。
筆者の人生を振り返っても、「高速道路を使った旅」というものはあまり記憶に残っていませんが、今回の旅は「手触り感」がありました。
これは人生も同じで、「効率」や「生産性」だけを求めると、人生は味気ないものになってしまいます。
反対に、一見「非効率」で「ムダ」なことが、人生に彩りを加えてくれることも実感しました。
「アクセル」や「ブレーキ」を駆使しながらも、
人生、「N(ニュートラル)」で生きたいものです。